前略Aさんへ(天翔の里生前葬の立ち合いにあたって)
Aさま、先日は久しぶりにお目にかかり、少しゆっくりお話ができてうれしくありがたい時間でした。
お父様の件、心より、お悔やみ申し上げます。
お父様とお母さまあってのAさんの存在。
Aさんとの出会いを私もご両親に感謝申し上げます。
さて、お父様のご逝去を機に、天翔の里生前葬を決められたとのこと…。
どのような心境の変化が?と思いましたが、もともと天翔の里で生前葬を、との想いがおありだったとのこと。
また旧来の供養にこだわりのあるお父様への気遣いから行動に移せなかったこと、お聞かせいただき、納得いたしました。
天翔の里生前葬は私たちの常識的な供養の概念とは全く違うものに見えるかもしれません。

常識?
ですが今私たちが「常識」と思っている供養の方法は実は江戸時代以降に作られたものといわれています。
それほど長い歴史があるものではないようです。また供養をそれぞれの宗教が担い、説明書をつくっているだけ…とも言えます。
さらには時代の流れで様々な供養の方法が提案されている昨今ですが、やはり人の死に際し、魂の問題は決して軽視できないことだと…12年間の自然の力での臨床を通じ、感じております。
大切な供養
供養は「なんでもいい」「どんな形でもいい」…というものではないと経験から感じています。
私たちには「魂」という大切な存在があります。
魂は肉体が滅びても滅びず、自然回帰し、また生まれ変わるようです。
ところが供養の間違いから、この「自然回帰」の道が閉ざされ、行き場を失うことがあるようです。
もちろんわからない世界のお話です。でも私には納得できることです。
魂を失ったときの自分(過去そういうときがあります)、魂があるときの自分、その差は大きく、その大切さを痛感しました。
魂の存在はひしと感じるのです。
また魂が過去世で縁があった方に出会うと、不思議と初めて会った気がせず、最初から親しみがわく…そんな経験もよくあります(^^♪
魂は私たちの肉体の運転手のようなものともお聞きしています。運転手が不在では車は動きません。そんな大切な存在です。
その魂が回帰する道を作れるのが天翔の里生前葬です。

バナナのロード
心が晴れる真の供養
私は2009年に自分の生前葬をすませ、その際にすでに故人であった母と祖母の供養が同時にかないました。もちろん他の沢山のご先祖様の供養も(*’ω’*)
心が晴れ晴れと軽くなりました。
そして自分はもうお墓に入らなくていいともうとウキウキする気持ちになれます(^^♪
それだけでも天翔の里生前葬はありがたいと思っていました。
でもそれだけでは終わりませんでした。
道
不思議と…生前葬を終えた後、見えないけれど道が用意されているようで…うまく表現できないのですが、こうなったらいいなと思うことがそうなっていくのです。
その感覚は私だけではなく、他にも天翔の里で真の供養を終えられたたくさんの方からお聞きします。
最近ようやく、その筋道が理解できる(イメージできる)気がしています。
天翔の里で生前葬を終えることは、自らの「終わりを先に決める」ことです。
つまり自然回帰の道が見えない世界にできます。
その道を目指して…生きているこの世界でもおのずと道ができていくのだと思うのです。
線を一本に決めるには、起点のほかにもう一つ点が決めます。
二つの点を通る直線は一本にきまります。
起点(誕生)ともう一点(自然回帰)が決まったことで、そこを目指して道が決まる。

終点が決まらなければどこにでも行ける…?!それは自由といえるのかもしれませんが、人生の時間が有限であるとするなら、迷いのループの中にはまるだけ…とも言えます。
今たくさんの方が人生に迷っている…私にはそう見えます。私は迷いがなくなりました(#^^#)
たまに(しょっちゅう?)晩ごはんのメニューでは悩みますが(笑)
「終わりが決まる」ことの結果
それは終わりが決まったからだと自分で確信できます。
そのことは年数がたてばたつほどに、ありがたさがわかり、感謝と感動と満足…そんな心境です。

Aさんの生前葬、立ち合い、見届けてまいります(#^^#)
たぶんたくさんのお友達がその場に立ち会って、おめでとうの気持ちを向けてくださるでしょう。
自分が経験したことの良さがわかるので、みな、「おめでとう」と思わず言ってしまうのです。そんな幸せな供養です。
どうぞ今後の人生も大切に。99%の世界があることを感じる日々を送られますように。
空気に感謝、ご先祖様に感謝、世界一の自分に感謝…
そして命が終わるその時まで、どうぞ魂を宿して死ぬ生き方を!
同じ場所で自然回帰できる友人として、いつでも求めていただけること、お待ちしております。
それでは。
令和2年8月5日
おもいつくままに…
たこがわのりこ